【忘れがたき銘車たち】懐かしい“ハチロク”が最新鋭マシンに⁉︎『JGTC AE86型スプリンタートレノ』

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツweb。両者がコラボしてお届けするweb版『Racing on』がスタートしました。
 web版 Racing onでは、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。第9回はJGTCに参戦した異色の名車、AE86型スプリンタートレノです。

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 漫画『頭文字D』の影響もあって、今もなお絶大な人気を誇るトヨタAE86型カローラレビン/スプリンタートレノ(俗称、ハチロク)。”この“ハチロク”の市販車デビューは1983年。それからグループAやラリー、富士フレッシュマンレースといったグラスルーツレースまで、モータースポーツのさまざまなカテゴリーで愛されてきた。

 そんなハチロクが、もっともサーキットレースで活躍していたのは1980年代のこと。グループAでも初年度の1985年を戦うと、1986年にはカローラFX、1988年にはAE92型が同シリーズにデビューしたことで、次第に姿を消していった。

 しかし1999年、前述した漫画『頭文字D』の人気が盛り上がっていた最中、突如、全日本GT選手権(JGTC)に参戦したのである。

 AE86をJGTCへと持ち込んだのは平岡寿道率いる『KRAFT(クラフト)』で、エントリー名は『BPアペックスKRAFTトレノ』。その名の通り、ボディデザインはトレノを選び、カーナンバーも『86』を選択していた。

 実は、クラフトは1998年にもトヨタ・キャバリエでJGTCに挑んでいたのだが、そのキャバリエも含めて、2年連続で“変わり種”なクルマを選んで、戦うことになったのだ。

 1999年のJGTCといえば、トヨタMR2やS15型の日産シルビアがタイトルを争っていた時代。今から21年も前なので、ハチロクは今と比べれば古いクルマではなかったのかもしれないが、当時も十分旧車だった。

 しかし、クラフトがつくり上げたAE86の中身は、最新鋭のメカニズムを持っていた。エンジンは、GT500クラスでスープラも搭載していた3S-GTを搭載していた。

 サスペンションはレギュレーション上、ノーマルのサスペンション形式を残していなければならなかったのだが、AE86のサスペンション形式がフロントこそMR2なども採用しているストラットだったものの、リヤは5リンク・リジッドと旧時代的だったために大改造が実施された。

 左右のナックルをパイプで連結し、左右が独立していない=リジッドである、ということで条件をクリアしつつ、リヤバルクヘッドからアルミ鍛造ブロックを削り出して製作した2枚のサポート板を伸ばして、その部分にデフ、アーム、スタビライザーなどすべての部品をマウント。

 しかも、ダンパーやスプリングはF3マシンのダラーラF399用を流用するといった、一見フォーミュラカーのような構造にしたのだ。

 1999年、デビューレースは本来第2戦の富士となるはずだったが、マシンの製作が遅れたことにより断念。初陣は、第3戦SUGOとなった。

 初戦こそ入賞を逃したものの、第4戦MINEからは連続で入賞を果たす。最終戦もてぎでは、完走することはできなかったが、予選でクラス7位を獲得するほどポテンシャルを持っていたのである。

 その後、AE86は2001年まで参戦を続けたが、クラフトは第3戦SUGOを最後にマシンをMR-Sにチェンジ。AE86にとってSUGO戦は引退レースとなったのだが、レース中に炎上……。悲劇的な最後を遂げた。

 AE86は、1999年第3戦SUGOから2001年第3戦SUGOまでのエントリーにおいて、表彰台、優勝はなし。目立った成績を残すことはできなかったが、“ハチロク”好きのファンをおおいに沸かせた意義ある3年間の冒険だった。

1999年の鈴鹿1000kmにはレギュラーだった田中実、雨宮栄城、同年モモコルセ・アペックスMR2をドライブしていた新田守男を加えた3名のドライバーで参戦。GTのシリーズ戦ではなかっが、GT300クラスで3位表彰台を獲得している。
1999年の鈴鹿1000kmにはレギュラーだった田中実、雨宮栄城、同年モモコルセ・アペックスMR2をドライブしていた新田守男を加えた3名のドライバーで参戦。GTのシリーズ戦ではなかっが、GT300クラスで3位表彰台を獲得している。