カリブ海の島国バルバドスの荒々しくも最高なモータースポーツ【サム・コリンズの忘れられない1戦】

 スーパーGTを戦うJAF-GT見たさに来日してしまうほどのレース好きで数多くのレースを取材しているイギリス人モータースポーツジャーナリストのサム・コリンズが、その取材活動のなかで記憶に残ったレースを当時の思い出とともに振り返ります。

 今回は2005年にカリブ海の島国バルバドスのブッシー・パーク・サーキットで行われたCMRCカリビアン・モーターレーシング・チャンピオンシップの一戦です。急遽取材に訪れたコリンズでしたが、“もっとも楽しいレースデーのひとつ”になったと振り返ります。

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 同僚からの助けを求める電話が鳴ったとき、私はオフィスのデスクに向かっていた。彼は「バルバドスに来てほしいんだ」と言った。いつ行けばいいいのか尋ねると、彼は「今だよ!」と答えた。

 その日に出発予定だったジャーナリストが直前で行けなくなり、土壇場で私が招集されたのだ。私は普段からパスポートを持ち歩いていたので、店へ行って服を数着買い、遠く離れた島国で行われるモーターレースについて記事を書くために出発した。

 およそ2時間後にはロンドンのガトウィック空港で、ビーチと強いラム酒がよく知られている休暇の島バルバドスへのフライトに搭乗していた。バルバドスのモータースポーツといえば、いくつかのラリーが開催されていることは知っていたが、サーキットレースについては何も知らなかった。

 バルバドスに到着すると、空港でWRCの専門家である同僚と、知らない人々のグループと会った。彼らは地元のレーシングドライバーとイベントプロモーターで、なんと私の歓迎パーティを開催してくれたのだ。私はすぐに次から次へとビールをたらふく飲まされた。

 やがて私は荷物を置くためにホテルに送られ、その後は魚が特別なやり方で料理されているバルバドスでも有名なエリアに連れて行かれた。チリ、ライム、レモンと奇妙な卵で十分に味付けされた鯛かティラピアを、非常に高い温度で揚げたものが出された。それはとてもおいしかった。

 そのエリア全体はスラムのようだったが、何百人もの人々で一杯でだった。私はかなり上流に見えるイギリス人一家と、地元を良く知る人々と一緒に座っていた。2匹目の魚を食べ、多くのラム酒を飲んでからやっと、食事を共にしていた相手がバルバドスの総督と首相だったことに気づいた!

 彼らは、バルバドスを国際的なモーターレースの主要開催地にしたいと話した。年間を通して気候が良く、高級志向な休暇の旅先であることから、モーターレースは経済を大きく後押しするように感じられた。

 実際に島にはふたつのモータースポーツ施設があることがわかったが、両方とも大幅な改良が必要だった。

 私は週末に、ブッシー・パーク・サーキットで行われるCMRCカリビアン・モーターレーシング・チャンピオンシップを訪れて、コース上でカリブ海地域一帯のトップのマシンが競うのを見ることになっていた。

 次の日に訪れたブッシー・パークと名付けられたサーキットは、1970年代に建設され、その後10年ほど放置されていたが、1990年代よりふたたび使用されるようになった。それでもサーキットの外見は、打ち捨てられたような雰囲気があった。

 2キロメートルのコースは、ガードレール以外のものはほとんどなく、路面はひどくバンピーで(バルバドスの道路はすべてかなりバンピーだが)、ピットはただの木造の小屋だった。

 このコースには、“国際的な”レースを開催する能力はないように見えた。

カリブ海の島国バルバドスのブッシー・パーク・サーキット
カリブ海の島国バルバドスのブッシー・パーク・サーキット

 サーキットを私と一緒に見ているもうひとりのイギリス人は、ドバイ・オートドロームの設計者であることがわかった。

 彼はコースをFIA国際自動車連盟の基準に適応させるための改修を依頼されたのだ。私たちは非常に仲良くやっており、地元の人間のほとんどは良い意味でクレイジーだということで意見が一致した。

 ブッシー・パークのコースを見た後、私たちはもうひとつのコースであるボークルーズ・レースウェイに行った。

 もともとはスプリントラリーの会場として建設されたのだが、オーナーはコースをモーターレース用にも改修したがっていた。可能ならばNASCARのショートトラックにしてアメリカやヨーロッパのレーサーたちを引き付けたいということだった。

 両方のトラックを見ている間、非常に暑い日だったが飲み水がなかった。しかし冷たいビールだけは終わることなく出てきたのだった!私は夜に海岸沿いのバーでレースプロモーターたちと会う約束をし、ホテルで短い休息をとった。

 約束の時間まで2時間の余裕があったが、あまりやることもなかったので、そのバーへ行ってみることにした。ホテルを歩いて出てタクシーに乗り、バーに向かった。タクシー運転手が私に話し始めた。

 彼のなまりがとても強いので理解するのに苦労したが、彼が私に「WRCはスーパー2000のレギュレーションを採用すると思いますか?」と尋ねていることがわかった。

 そのような質問をされてとても驚いたが、タクシー運転手にとってこれは普通の会話のようだった。

 バーに着くと、私はカクテルを注文した。天気が良く、私は海を眺め、新聞を手に取って読んだ。

 一面には地元のレーサーのひとりのマシンの大きな写真が載っていた。小さなイベントだと思っていたが、全国紙にこれほど大きく取り上げられていることにまた驚いた。

 レースプロモーターのビジー・ウイリアムズがバーに到着したので、私はタクシー運転手のことを話し、新聞を見せた。彼は笑って、バルバドスではモータースポーツが最も人気のあるスポーツなのだと説明した。

 実際に国中がモータースポーツに夢中になっており、ブッシー・パークでのレースデーには2万から2万5千人の観客の入りが予想されるという。それはバルバドス全人口のざっと10パーセントにあたる。

 もし日本の人口の10パーセントが富士スピードウェイにレースを観に行ったら、1260万人の人出になってしまう!私は驚愕した。

 この風変わりな小さな島でモータースポーツがそれほど人気だとは思えなかったが、私はレースデーの朝にそれが真実であることに気付かされた。

 私はバルバドス時間の午前9時に始まるF1イタリアGPを観たかったのだが、ホテルの部屋のテレビでは放送しているチャンネルがなかった。そこで午前8時に起きて、イギリス人のサーキットデザイナーと一緒に近くのスポーツバーまで歩いて行った。そこならレースを観られると言われたのだ。

 私たちが到着すると、バーに入ろうとする人々の非常に長い列があったが、幸いにもその先頭に行くよう手招きされた。

 おそらく500〜600人の人たちがバーに入るのを待っていた。そして誰もが何かしらのF1のウエアを着ていた。バーのなかはファンで賑わっていた。

■バルバドスを走る素晴らしいマシンたち

 私たちはラッキーなことにテーブルについて大きなスクリーンでレースを観ることができた。ふたりとも伝統的なイングリッシュブレックファーストを注文した。

 植民地時代の名残で、バルバドスでは今も一般的なメニューだ。ベーコン、卵、マッシュルームとソーセージからなるこのメニューはイギリス国外で食べるのが非常に難しい。だがバルバドスでは完璧に料理されていた。

 グランプリは見栄えがしなかった。マクラーレンのドライバーのファン・パブロ・モントーヤがポールポジションからスタートし、全周回で首位を走行して優勝した。

 しかしながらレースがつまらなかった一方で、かつてない速さのトップスピードの記録が出たことは注目に値した(マクラーレンのキミ・ライコネンが370.1km/hを出した)。それに1台のリタイアも出なかったということもある。1961年以来、すべてのマシンがスタートしてフィニッシュしたのだ。

 レースが終わるとすぐに、私たちはブッシー・パークのレースに向かった。そこではふたつの異なるチャンピオンシップが行われていた。CMRCと、地元のバルバドス・チャンピオンシップだ。

 1日を通して異なるクラスが混在するレースとなった。ハンディキャップレースなので結局のところすべてのマシンが走行することができたようだ。私は異なるクラスと言ったが、私のノートにはグループと書いてあった。私はそれが何を意味するのか正確にわからなかった。

 パドックに到着すると、さらに訳がわからなかった。私が慣れ親しんでいる整然としたレーシングパドックというより、そこは何かの市場のように見えた。

 いたるところでマシンの作業が行われており、あらゆる種類の混乱が起きていた。誰がドライバーなのか、誰がチームの関係者なのか、誰が観客なのかはっきりしていなかった。

 だがマシンは素晴らしいものだった。基本的にプロダクションカーをチューニングしたマシンであり、多くはイギリスか日本から輸入されたものだ。

 植民地時代のルーツがあるため、バルバドスは右ハンドルのマシンを使用する。多くのマシンは私がイギリスで親しんでいるものだった。BMW 3シリーズは人気のある選択肢で、ホンダCR-Xも同様に人気だった。

 すべてのマシンが準備万端の状態にあるわけではなく、私はこれらのマシンはヨーロッパのレースの車検には通らないのではないかと思った。

 私はこうした下位グループのマシンを通り越して、最上位グループのCMRCマシンのところへ行ったが、このクラスはひどく極端だった。

 私はオフィシャルにテクニカルレギュレーションについて説明を頼まなければならなかった。インターネットでレギュレーションを見つけることができなかったのだ。

「テクニカルレギュレーション?もちろんルールブックはあるけれど、これは時間内で行うレースだから、このクラスにはそれほどルールはないよ」と彼は私に話した。

 私たちは、大きなウイングが取り付けられ、明らかに大幅に改造されたエンジンを載せた三菱ランサーエボリューション5のところに立っていた。それにもかかわらず、私はそれほど興奮してはいなかった。

 私が世界の他の場所で見たことのあるエボ5ほど極端なものではなかったからだ。だがそれでも私はショックを受けそうだった。

CMRCに参戦した1台。
CMRCに参戦した1台。

 また数台の三菱車があり、ほかはそれほど知られていないマシンだった。すべてが大幅に改造されていた。注目すべき1台は、珍しいセンターシートのロータス・エキシージだったが、それはコリン・マクレー時代のフォード・フォーカスWRCの隣にとめてあった。

 フォード・フォーカスWRCはサーキットレース仕様に改造され、大きなリヤウイングとフロントスプリッターを備えていた。

 その隣にあったのは、BTCCイギリス・ツーリングカー選手権に出ていたアウディ A4 STWで、ワークスカー時代よりもはるかに多くの開発と改造が施されていた。その隣にあったのは、アウディ TTで、元々はDTMドイツ・ツーリングカー選手権でレースをしていたものだった。

 これらのうちで最もワイルドなマシンは、マツダRX3だった。特殊なメタノールと過酸化水素を混ぜた燃料で動く、ターボチャージャーつきのロータリーエンジンを搭載していた。走行時には爆音をたて、ドライバーが走り出すたびにエキゾーストから大きな炎が上がった。それは素晴らしく、めちゃくちゃに良かった。

バルバドス王者マロニーのRX3
バルバドス王者マロニーのRX3

■レース観戦中にラム酒を飲むカルチャー

 めちゃくちゃに良かったといえば、最後に私が見たマシンもそうだ。それは日産車で、2002年のJGTC全日本GT選手権に参戦したスカイラインGT-Rに着想を得たものだったが、改造にそれほど費用をかけなかった、もしくは実際にはベースがGT-Rではなかったようだ。

 代わりにそのマシンのオーナーは、1980年代後半の日産のセダンを使い、そこからGT500マシンを作り出そうとした。

 その試みはある程度は成功していた。彼は金属製のボディパネルをグラスファイバー製に交換し、シャシーを大幅に改造し、SR20DETエンジン(大幅にチューニング済み)を載せていた。

 そのボディワークは興味深いものだった。ほとんどの部分は彼がインターネットで見つけたGT500マシンの写真を元にしたものだった。彼はちゃんとしたフラットフロアやディフューザーを作るためのパーツを買う余裕がなかったので、それらのパーツを木で作っていた!

 レースが始まると、地元のカルチャーとして私もレース観戦中にたくさんのラム酒を飲む必要があることを理解した。そうしないとホストに対して失礼なのだ。私はラム酒をよく飲むタイプではなかったが、氷をたくさん入れて楽しんだ。

 私はレースを楽しんだが、それはめちゃくちゃに良かった。コースは幅が非常に狭く、追い抜くのが難しい。そのためマシンの接触がとても多かった。

 コーナーのうち2カ所はランオフエリアがまったくなく、古い波型の金属製のフェンスが張ってあるだけだった。このフェンスの反対側は公道だった。

 すぐにあるマシンがコントロールを失って、フェンスに突っ込んだ。私はこれはブッシー・パークでのレースでは普通のことなのだと気づいた。フェンスのパネルは蝶番で開くようになっていたからだ。

 マシンがフェンスパネルの下部にぶつかると、フェンスパネルが開いて、マシンは公道に出される。そしてフェンスは壊れることなく元に戻るのだ。

 コース上でクラッシュしたマシンは、公道を走ってメインのサーキットゲートにまわり、パドックを通過してコースに戻り、レースを続けるのだ!このようなことを私はまったく目にしたことがなかった。

 トップクラスの最初のレースで、私は見通しの良い場所まで歩いていき、何枚か写真を撮った。後ろに立てるようなバリアがなかったので、私はサーキットの一部に並べられたドラム缶の後ろに立っていることにした。

 だが私がドラム缶の上にカメラを置いたとき、ドラム缶が空であることに気づいた。もしマシンがコースオフしてきたら、ドラム缶はまったく保護の役目を果たさないだろう。私は多少は安全なパドックに戻ることにした。

 レース自体は、現バルバドス王者でRX3を駆るマロニーと、現ガイアナ王者であるマーク・ビエラの間の遺恨試合のようなものだった。ビエラのマシンは日産300SXだったと思うが、大幅に改造されていたので特定するのが難しかった。

 このふたりの激しいライバル関係は1年中続いており、それがヤマ場に達していようとしていることを後になって私は知った。

 レースが始まると、ふたりのライバルはすぐに互いにマシンをぶつけ合い、地元のヒーローのマロニーのRX3はスピンしてストールした。レースはすぐに中断された。

 憤慨したファンたちがコースに侵入したのだ。地元民の一部はビエラの行動に抗議しており、ガイアナ人の一部は地元民に抗議していた。観客席とパドックでは喧嘩が始まっていて、私には暴動の始まりのように見えた。

 突然、2台のレーシングカーが私とイギリス人のサーキットデザイナーのいるところに寄せてきて、私たちは助手席に乗るように言われた。

 私は何が起きているのかまったくわからなかったが、このふたりのドライバーは地元のドリフトチャンピオンで、ドリフトショーをやろうとしていた。私に何をしてほしいのかと尋ねると、「助手席に座って、ファンたちに手を振り、彼らがマシンを見るように促してほしい。そうすれば彼らの注意をそらすことができるから」ということだった。

 ライバルグループの観客たちの間では暴動が起こりそうだったし、ピットではメカニック同士が喧嘩していたが、私はドリフトショーの間、助手席に座っていた。それはクレイジーだったが、うまくいった。数分後、ドリフトショーを見るために群衆は観客席エリアに戻ったのだ。

 レースは続き、アクションに満ち溢れていた。それは私が見てきたなかでも、もっとも楽しいレースデーのひとつとなっている。私は誰がどのレースで優勝したのかわからなかったが、それは大したことではなかった。レース自体が非常に素晴らしかったからだ。それはモータースポーツ版のワイルド・ウエストで、私はとても気に入った。

 その当時の写真やビデオはそう多くは残っていないが、2010年のブッシー・パークでのCMRCレースは、YouTubeで見ることができる。クレイジーなコースとクレイジーなマシンは一見の価値がある!

 数年後、私はバルバドスに戻り、あるレースに4台のマシンとドライバーをエントリーした。そのレースもワイルドであり、喧嘩も起きた。絶えずラム酒が振舞われ、非常に楽しかった。そのときはある理由から、ドライバーの妻のうちのひとりを刑務所から出さなければならなかったが、それはおそらくまた別の記事にする。

 今日のブッシー・パークは以前よりは落ち着いている。2005年に我々が訪問した後にプロジェクトが開始され、コースの拡張と改修が行われた。

 現在ではきちんとしたピットレーンとピットガレージを備えている。バリアも設置されているし、コースの路面も十分に整備されている。現代的なレーシング施設になったのだ。

 ルイス・ハミルトンは何度かここを訪れて、ただ楽しむためにメルセデスのF1マシンで数周走ったことがある。荒々しさの片鱗を失いはしたが、それでもここは訪れるにはとてもクレイジーな場所だ。

 いつもと違う休暇の目的地を探しているのなら、私はバルバドスに行って毎年恒例のCMRCレースを見ることを強くお勧めする。忘れられないものになるし、ラム酒を気にいることだろう!

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サム・コリンズ(Sam Collins)
F1のほかWEC世界耐久選手権、GTカーレース、学生フォーミュラなど、幅広いジャンルをカバーするイギリス出身のモータースポーツジャーナリスト。スーパーGTや全日本スーパーフォーミュラ選手権の情報にも精通しており、英語圏向け放送の解説を務めることも。近年はジャーナリストを務めるかたわら、政界にも進出している。