ランボルギーニ ウラッコ、生誕50周年。ポルシェ911イーターを担ったスモール・ランボを振り返る

Lamborghini Urraco

ランボルギーニ ウラッコ

スタンツァーニの技術とガンディーニの美学

1970年10月下旬。トリノ モーターショーに1台のランボルギーニが登場した。「ウラッコ」と名付けられたコンパクトな2+2クーペは湧き上がる熱狂に迎えられ、多くの注文が殺到したという。

全長わずか4.25mの“小さな闘牛”は、チーフエンジニアのパオロ・スタンツァーニにより革新的な技術を、当時ベルトーネに在籍していたマルチェロ・ガンディーニにより創造的な体躯を与えられた。

ランボルギーニ ウラッコのフロント走行イメージ

ライバルはポルシェ911

ミッドシップされたのはV12ではなく、コンパクトなV8。マルチェロ・ガンディーニの描く独創的なプロポーションに、2+2の実用的なキャビンを詰め込んだスポーツクーペが、ポルシェ911をターゲットに据えているのは明らかだった。

シングルカム、ヘロン式燃焼室(頭頂部を凹にしたピストンと、平面な底面をもつシリンダーヘッドで構成する燃焼室)を採用し、ウェバー製キャブレーターを4基備えた2.5リッターV8は、最高出力220hpを7800rpmで発生。最高速度は245km/hを記録した。また、前後にマクファーソンストラット式独立懸架サスペンションを採用している。

ランボルギーニ ウラッコのサイドビュー

目指したのは効率的な生産体制

コクピットの風景も独創的であった。左右に大型の回転計と速度計を配置し、その間を繋ぐ細いブリッジ部分に油温計や燃料計を並べた横長のインストゥルメントパネルは先鋭的な印象を与えた。

ウラッコの当初の計画に盛り込まれたもうひとつの「革新」は、伝統的な職人によるものづくり工程を減らし、量産体制を敷くことにあった。ウラッコが体現しようとしていたのは、ランボルギーニを大規模な自動車メーカーへ成長させたいと考えていたフェルッチオその人の願いだったのである。

ランボルギーニ ウラッコのコクピットイメージ

ガヤルド、ウラカンへと繋がっていく系譜

ウラッコは1970年〜1976年に2.5リッターエンジンを積んだ「P250」を販売(Pはイタリア語posteriore=後方の頭文字。エンジン搭載位置を意味する)。1974年のトリノ モーターショーでは、主にイタリア市場をターゲットに182hpの1994ccエンジンを搭載した「P200」を公開。1975年〜1977年の3年間生産した。また、同じく1974年に、265hpの2996ccエンジンを積む「P300」を投入。こちらは1975年から製造し、1979年で生産を終えている。

累計生産台数、わずか800台足らず。

その背景には、生産品質の低迷(ウラッコには精密な生産技術が求められた)や、トラクター事業の苦境といった社内的混乱が影を落としていたようである。

ランボルギーニ ウラッコのリヤ走行イメージ

P250、520台。P200、66台。P330、190台。ウラッコの大量生産の夢は叶わなかった。しかし、スタンツァーニによる画期的なメカニズム、そして歴史に残るガンディーニの美学を具現した小さな雄牛の足跡はいまも消えない。そのDNAは2020年現在も、ウラカンへと確かに受け継がれている。