ヤマハOBキタさんの鈴鹿8耐追想録 1986年(後編):続発するトラブルを乗り越え満身創痍の4位入賞

 レースで誰が勝ったか負けたかは瞬時に分かるこのご時世。でもレースの裏舞台、とりわけ技術的なことは機密性が高く、なかなか伝わってこない……。そんな二輪レースのウラ話やよもやま話を元ヤマハの『キタさん』こと北川成人さんが紹介します。なお、連載は不定期。あしからずご容赦ください。

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 ところで筆者は、前年の消火器担当(編集部注:設計者として車体をまとめていたキタさんだったが、鈴鹿8耐決勝中は率先して消化器を持ち有事に備えていた)から日本人ペア(平塚庄治/塩森俊修組)チームの監督に出世していたが、当時の写真を見返してみるとキャンギャルとチャラけたものばかり(笑)。どうも監督という職責にプレッシャーを感じてはいなかったようだ。

 この1986年のヤマハファクトリーはラッキーストライクチーム(ケニー・ロバーツ/マイク・ボールドウィン組)と資生堂TECH21チーム(平 忠彦/クリスチャン・サロン組)という優勝狙いの必勝態勢だったので、我がチームのほうは淡々と完走出来ればいいと考えていた。

 ところがいざ蓋を開けると、本命のラッキーストライクチームはガス欠でコースをショートカットして戻ったためペナルティを受けたことで優勝の可能性が早々に消えた。TECH21チームもマシントラブルによりレース半ばで戦列を離れるという事態。気が付いたら、残ったのは我がチームだけという有様だった。

 ちなみにラッキーストライクチームのガス欠は、子分の分際でライディングポジションを始めとしたマシンセッティングを親分に合わせようとしないボールドウィン選手専用のタンクカバーが遠因。ピットストップ時に毎回行われるその交換の際に、運悪く燃料ポンプの配線が外れてしまったのである。

 さて、比較的お気楽だったはずの我がチームは突然大きな責任を負うことになってしまったが、実はこちらも朝からのドタバタでパニックに陥っていた。

■疲労困憊のなかで意地を見せたライダーたち

 まず朝一のウォームアップ走行で平塚選手がまさかの転倒を喫してマシンは修復不能の痛手を負ってしまった。フロントブレーキパッドが抜け落ちたためにノーブレーキでグラベルに直行という恐ろしいアクシデントだった。幸い平塚選手は大きな怪我は免れたものの全身に打撲のダメージを負っていた。本番はスペアマシンを使用せざるを得なかったが、これがまたエンジンは既に8耐を一度完走したくらいの距離を走りこんでいたし、シャシーも開発テストでずっと使用していたものなので相当クタクタの状態だった。

 そんなマシンに手負いのライダーでとにかくレースはスタートしたが、ここでもう一つ問題が発生。交代して走り出したペアライダーの塩森選手のタイムが思ったように上がらないのだ。

 それまで軽量級のマシンしか乗車経験がないので無理もないのだが、新進気鋭のファクトリーライダーとしては少し情けないラップタイム。おまけに一時間走りきると疲労困憊でその場に倒れこむ体力のなさも露呈してしまった。最後のスティントは平塚選手の続投も考えたが、彼も転倒のダメージが重なって相当疲労している。それでも「行けと言われれば行きますよ!」と男気を出して腹を括ってくれた。

 結局、塩森選手が最後の気力を振り絞って走ることになったのだが、「僕、ゴールしたらマシンを支えられないと思うんで助けに来てくださいよ」と弱気な言葉を吐いてピットアウトしていった。レースは終わってみれば表彰台に一歩及ばない4位でゴール。心配した塩森選手も最後のスティントでベストラップを出して奮闘し、プロのライダーとしての意地を見せたのだった。

 最終的にファクトリーチームで完走したのは我がチームだけだったが、ヤマハとしてはマイケル・ドーソン/ケビン・マギー組というオーストラリア人ペアが二位表彰台を獲得して、辛うじて面目を保つことができた。

 ちなみに、このチームのマシンは市販車実験部門のメンバーが市販FZ750にキットパーツ+αを組み込んだものだったが、筆者に何の断りもなく前年の0W74のアッパーカウルを無理やり取り付けていたので、非常に複雑な思いだった。

 おまけに、このチームを出走させる計画を推進した営業サイドの人間がファクトリーチームの不本意な結果に対して、「大金掛けてこの結果はあり得ない、開発マネジメントに問題がある」とレース後にあからさまにレース部門を誹謗中傷するのではらわたが煮えくり返る思いだった。しかし、この時に受けた辱めが「何くそっ!」という反発心を生み、それまで以上に開発に真摯に取り組む原動力となったのも事実だった。(1987年の鈴鹿8耐編に続く)

この年から車名を“YZF750”とし、ファクトリーとしては3チームエントリーしたヤマハ陣営。ところが、TECH21チームの0W80はエンジントラブル。ラッキーチームもガス欠に泣く。
1986年から車名を“YZF750”とし、ファクトリーとしては3チームエントリーしたヤマハ陣営。ところが、TECH21チームの0W80はエンジントラブル。ラッキーチームもガス欠に泣く。

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キタさん:(きたがわしげと)さん 1953年生まれ。1976年にヤマハ発動機に入社すると、その直後から車体設計のエンジニアとしてYZR500/750開発に携わる。以来、ヤマハのレース畑を歩く。途中1999年からは先進安全自動車開発の部門へ異動するも、2003年にはレース部門に復帰。2005年以降はレースを管掌する技術開発部のトップとして、役職定年を迎える2009年までMotoGPの最前線で指揮を執った。

2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。
2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川成人さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。