ヤマハOBキタさんの鈴鹿8耐追想録 1984年(前編):小手調べの参戦のつもりが、トップライダーを投入する事態に

 レースで誰が勝ったか負けたかは瞬時に分かるこのご時世。でもレースの裏舞台、とりわけ技術的なことは機密性が高く、なかなか伝わってこない……。そんな二輪レースのウラ話やよもやま話を元ヤマハの『キタさん』こと北川成人さんが紹介します。なお、連載は不定期。あしからずご容赦ください。

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 筆者の長いレースエンジニアのキャリアの中で一際強烈な体験として記憶に残っているのが、1984年から1990年までの鈴鹿8耐出場マシン(TT-F1)の開発に携わった七年間である。時代はバブル期と重なる空前絶後のバイクブームの最中にあり、その間幸運にも三度の優勝を経験することができた一方、プロジェクトリーターとして臨んだ年には全車リタイアという散々な結果も経験した。

 そんな波乱に富んだ8耐挑戦について、あまり世間に知られていないマイナーなエピソードを中心に書き残しておきたいと思う。ただし個人の記憶による書き物なので、公に知られた記録とは若干の矛盾があるかもしれない点はご容赦願いたい。

 1984年にヤマハはXJ750R(開発コード“0U28”:ちなみに“0U”は市販車の先行開発に付与するコード)で全日本ロードレースのTT-F1クラスに本格参戦を始めた。それまでは市販車開発部門がレース用車両を開発し、表向きは社内チーム(磐田レーシングファミリー)のプライベート活動として参戦していたが、TT-F1の車両規定が1000ccから750ccになったのを機にファクトリーレベルでの参戦が決定したのだ。

 とはいえベース車両は旧式なDOHC2バルブでシャフトドライブのXJ750E。エンジンをこてこてに改造してチェーンドライブにしてはみたものの、出力はわずか100psをやっと超える程度だったので勝つつもりは毛頭なく、とりあえず小手調べという感じでの参戦だった(少なくとも筆者はそう理解していた)。

 市販車開発部門が進めてきたプロジェクトを引き継ぐ形だったので、社員ライダーのY氏が乗るものと勝手に決め込んでマシンを一層コンパクトに作り込んだのだが、シーズン直前に大柄な上野真一選手が乗ると知ってビックリ。それどころか8耐本番には、上野選手に加えて河崎裕之・平 忠彦両選手(編集部注:平選手は第3ライダー登録)というヤマハのトップライダーを惜しげなく投入すると聞くに及んで、さすがに筆者も少しびびりモードだった。

 そもそもこの年の8耐の頃には既に次年度に投入決定していたFZR750(開発コード“0W74”)の設計が佳境に入っていたので、筆者の関心はそちらに100%シフトしていたのだ。上司には、「来年の車両開発に専念したいので8耐の出張はパスさせて欲しい」と申し出て留守番を決め込んでいたが、「ヘッドライトなんてとりあえず付いていれば何でもいいよ」という誰ともなく放たれた言葉(たぶんY氏)にだまされて、スクーター用の25Wの小径ヘッドランプ(しかも樹脂製)を装備したのが仇となり、急きょ鈴鹿に行く破目になった。

 夜間の練習走行で、「ライトが暗くて走れない!」との訴えがライダーからあり、同サイズで高出力のシールドビームを清水(現静岡市清水区)の某灯火器専門メーカーまで引き取りに行き、その足で鈴鹿に持ち込んだ。そして鈴鹿に着くなり現場でリムを手作りしてなんとかレースには間に合わせたのだが、結局そのままレース本番まで見届ける事になってしまった。

 かようにファクトリーチームとは思えないような取り組みではあったが、レース本番はライダーのポテンシャルが図抜けていたので、「ひょっとしたら表彰台に乗れるんじゃないの!?」と思わず欲が出るくらい快調に走ったのを憶えている。(後編に続く)

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キタさん:(きたがわしげと)さん
1953年生まれ。1976年にヤマハ発動機に入社すると、その直後から車体設計のエンジニアとしてYZR500/750開発に携わる。以来、ヤマハのレース畑を歩く。途中1999年からは先進安全自動車開発の部門へ異動するも、2003年にはレース部門に復帰。2005年以降はレースを管掌する技術開発部のトップとして、役職定年を迎える2009年までMotoGPの最前線で指揮を執った。

2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。
2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川成人さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。