フェルディナント・ピエヒ博士のレクイエム【清水和夫の新連載「ポルシェに乗らずに死ねるか」】

フェルディナント・ピエヒ博士のレクイエム【清水和夫の新連載「ポルシェに乗らずに死ねるか」】

Ferdinand Piech

フェルディナント・ピエヒ 

連載するにあたって

ポルシェの創業者であり、20世紀の偉大な自動車技術の天才であったフェルディナンド・ポルシェ博士の直系の孫のピエヒ博士が亡くなった。御年82歳。まだ若い気はするが、私にとってこの時、ひとつの時代が終わった気がした。今回から「ポルシェに乗らずに死ねるか」という連載を始めようと企画していた時に届いた悲報だったので、まずはピエヒ博士とフォルクスワーゲンの関わりについて書いてみたい。

フォルクスワーゲングループを再構築した功労者

1998年、イギリスの自動車専門誌に掲載された当時フォルクスワーゲングループを率いていたフェルディナント・ピエヒ会長のインタビュー記事を、いまでもよく覚えている。

「戦略的アライアンスのビジョンは明快です。例えば、アウディはBMW、スペインのセアトはアルファロメオ、チェコのシュコダはボルボのようなブランドを目指します。そしてフォルクスワーゲンはメルセデスのようになります」

アウディなどグループ傘下に属する各ブランドの役割について語った内容だったが、当時フォルクスワーゲン・ゴルフとアウディA3のプラットフォームをグループ内で共用し、シナジー効果を生み始めていた時期だった。

思い返してみると、その明確なビジョンが現在まで続くフォルクスワーゲングループの礎になるとは想像もしなかったが、翌1999年、フォルクスワーゲンはフランクフルト・ショーでD1と名付けた高級車のコンセプトカーを発表。さらに名門高級スポーツカーで知られるブガッティ社とベントレー社に対して積極的に資本参加し、フォルクスワーゲンは大衆車から超高級車を有する強大な帝国を形成していったのであった。

この頃からピエヒ会長は「フォルクスワーゲンはフルラインメーカーになる」ことを強く意識し、仮想敵としてメルセデスにターゲットを絞っていた。フォルクスワーゲンはもともとドイツの国民車(フォルクスワーゲン)として生まれ、小型車の先駆者として世界中で親しまれてきし、初代フォルクスワーゲン車であるビートルを設計したのがピエヒ会長の祖父にあたるフェルディナント・ポルシェ博士であった。ピエヒ会長はポルシェ博士を尊敬しており、博士が築いたフォルクスワーゲンを世界的に成長できるブランドに育てることが孫の自分の役割であると信じていた。

独創のモジューラーエンジン、W型8気筒を開発

アウディなどを傘下に収めたとき、フォルクスワーゲングループが扱うプラットフォームはポルシェを除いてすべてがFWDで、その点がメルセデスやBMWとは異なっており、搭載エンジンは前後長がコンパクトでなければならないという必然の条件があったなかで、ピエヒ会長は狭角(15度)のV型エンジンを考案(VR4気筒)。72度のバンク角で繋げるW型8気筒をモジュール設計した。